昭和46年06月05日 朝の御理解



 立教神伝
 「神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き。」

 お道の信心をさせて頂いて他の宗旨、宗派の他の宗教を見て、他の宗教に無いと思われる処、いうならば金光教の独壇場的教え方と言うか、これはもう金光教の教祖にしてこう仰しゃられるところ、「神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」神様が助けてくれと仰しゃられる宗教は他にないようですね。神様は人間氏子を助けなさるばかりと、いうのが他の宗教に見ぬ神観でしょうかね。
 ところが金光様の御信心で、初めての人がまあ変わっているなあと言う処は、この辺のところじゃなかろうか。神様が助けてくれとこう仰しゃる、神も助かり氏子も立ち行き、まず神様が助かろうとなさってる、金光大神を通して、金光大神の人柄と言うか、又とない教祖の実意丁寧な御性格に、神様が頼んで居られるのがこの立教神伝ですね。どうぞ神を助けてくれとこう言うとられる、神も助かり氏子も立ち行く、そこで私はここの所から思わせて頂くのですけども。
 まあこれは仏教的な言い方を致しますと、この世は神の世と言った様な事、この世は神の世だと、だからあの世で、えいごう助かって行くと言う事。あの世では永い、いついつまでも助かると言うこと、この世は神の世だと言う様なふうに言っております。世には神を売って食う者が多いとか、または世の人が神の事を、あれこれ口の端にかけるとか、世の人世の中にはとか、教祖様はこの世の中のこと、この世の事、この世のことを大変大切に思うておられる。
 現実この世の中に悩み苦しんでおある人間氏子を見られては、神様御自体が身も世も無い、どうか信心しておかげを受けてくれよと言うふうに、人間氏子にかけられている願いが、その様に教えておられる。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと。もうこの世では仕方がないぞ、あの世で助かるんだぞと言う様な事ではないんですね。教祖の場合はいうならば現実派です、この世で助かってくれと、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと、そこの所を神様はもう一つ、そういう人間氏子がこの世で助かると言う事。
 そして神様自身も助かって下さる願いをかけておられる。私共が助かってさえおれば、おかげ頂いてさえおれば良いと言うものではない。私共が助かると言う事が、そのまま神の助かりに繋がっておるという、助かりでなからなければならない。その辺のところも大変違うですねお道の信心は、氏子信心しておかげを受けてくれよと、私共の願いが成就すると、お前達の願いが成就すればよいという願いではないですね、それに依って神様も助かろうとなさっておられる。
 氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで、いわゆる信心「神人」共栄、神人共に栄えて行こうと言うそういう願い、氏子繁昌いたし末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く、ここんところも親にかかり子にかかりと言うのは、神様にかかり氏子にかかると言うこと、だから普通でいう肉親、親子の事ではない、これからも末々繁昌して行かねばならんが、その繁昌して行かねばならないが、親にかかり子にかかりで立ち行くおかげを頂こうとなさってる。
 ですから此の世で私共が、真実助かり然も神様も喜んで下さる助かり方、神も喜び氏子も喜び、金光大神もの喜びと仰しゃる。そういう助かりでなからなければならない。おかげの言わば御利益の頂き逃げと、言った様な事ではないわけです。あぁあの時はほんと助けて貰うとった。あの時は不思議なおかげ頂いたと言うものではない。金光教でいう助かりと言うことは、その助かりが何処までも、神の助かりに繋がっとらなければならない、だけでは無くて、末々までも氏子繁昌いたし。
 末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くという世界が、この世で顕現されておかなければならん、この世で現されておかねばならないと言うのである。実に現実的だ、本当に人間が願っておる、人間がさせて頂かねばならない、宗教だと言うふうに感じますね。何か空々しい空虚なものを教祖の御教えからは全然感じられません。私共が常日頃願って止まないものを満たして下さると言う感じ、只そこんところの考え方がです、満たして下さると言う事がです。
 自分だけ良ければ良いと言うのではなくて、果たしてこうやっておかげを頂いておるがこのおかげが、神様も果たして喜んで下さる助かり方になっておるか、金光大神も喜んで下さってのおかげであるかと言う事をです、確かめて又確かめ乍らの助かり、そこでどうでも私共はですね、この世でひとつおかげを頂かねばいけんのです、そこでね、これはどうでもこうでも、目指すところは何処にあるかと言うと、お徳を受けると言うこと、お徳と言うおかげを受けると言う事。
 神様の御信用頂ける氏子になると言う事、この世でそのおかげを頂いとかなければ、この世の助かりと言う事にはならない。金光様の御信心を頂いて、病気が治った、金光様の御信心を頂きよるけん商売が繁昌しょる、そういうおかげではね神様は喜んで下さらん。氏子が信心しておかげを受けると言う事は、氏子信心して徳を受けて、そしてその徳に伴うてくるというおかげ、それならばです、現実この世で徳を受けて。
 これが神様のお徳と言うものであろうか、御神徳と言うものであろうかと、自分で感じさせて頂けれるおかげ、そういうおかげには人間の幸せになって行くすべてのものがそれには、伴うておる、現実的ですね。この世でおかげが頂かれる、人間幸福の条件と言えばまず健康でしょう、財のおかげを頂く事でしょう、人間関係がスムーズに行く事でしょう。そういうものがスムーズに行かなかったり、難儀を致しておりましたり、不健康であったり、それだけですその中で。
 この世では仕方がないからあの世でおかげを頂くと言うのでは全然違うでしょうが。ならこの世で御利益、御利益と言うから、どうも金光教の信心は低級だと、まあ言う人が若しあるとするならば、金光教で言うおかげと言うのは、この世にも残しておけ、あの世までも持って行けると言うおかげなんだもの。それは何かと言うとお徳です、お徳と言うおかげです、よく信心者の中にはね、この世では仕方がないと、あの世で極楽に行く、実に諦めの良すぎる様な考え方をしている人が沢山ありますね。
 そうじゃないこの世に生を受けている間に、真の道を分からして貰い、真の人にならして貰う精進をさして頂いて、天地の道理に適うた生き方をさして貰うて、神様の御信用を頂き、神の徳を受けて、そしてそれを自分自身も助かり、自分自身も幸福な生活さして頂いて、その幸福の基であるお徳をです、この世可愛い子にも孫にも残しておけて、然もあの世までも持って行けるのが神徳じゃ。私は金光大神や天地の親神様が氏子にかけられる願い、どうぞおかげを受けてくれと仰しゃるのはそういうおかげとこう思う。
 だからこの世を大事にせなければいけない。いわゆるこの世で実意丁寧な生き方をしなければならない、そういう姿勢をこちらが取ってさえおれば、神様はそうしたお徳を下さる、チヤンスは何時も与えて下さる。これはもう誰の上にでも。めぐりの為に苦しんでおる、いわゆるめぐりは暗い、それこそ真っ暗いものであるけれども、そのめぐりをめぐりとして自覚する、悟ればそこから光明、明るいおかげが受けられる。
 いわゆるめぐりの自覚に立つというもの、ここのところの自覚に立たず只明るくなりたい、おかげを受けたい、おかげを受けたいではよしおかげを受けましても、それはあの世までも持って行ける、この世までも残しておけると言うおかげにはなりません。めぐりの自覚に立たして貰う、そこからね、めぐりのお取り払いと言うか、お取り払いを頂かなければ人間の幸福はあり得ないところから、如何にしてめぐりのお取り払い頂くかと言うところから、信心が生々として来る。
 それこそ生神金光大神、お取次を下さる生神金光大神を掛け声にしての生活が出来る。例えば力を入れる時にやはり掛け声、よいしょとか、何とか掛け声をする、そうするとやはり力が出るように、私は生神金光大神、金光大神というのは私ども、例えばめぐりの深いものが真っ暗い中にある、めぐりの苦しみがある。だからそのめぐりのお取り払いの為に精進する。「やれ痛や今みかげを」と言うて下さる。やれ痛やと言うのがその儘めぐりのせいなのである。
 そこに難儀を感ずると言う事はめぐりのせいは、暗いけれどもそこに仲在して下さる、中に入って下さる生神金光大神、金光様という掛け声をもって立ち上がる。そして成程痛くもある、苦しみもあるけれども、今こそめぐりのお取り払いを頂いとるのだという歓喜が満ち溢れてくる。「やれ痛や今みかげを」という気になれよと、こういうチヤンスは又とない、このチヤンスを逃がしてはならない、このチヤンスにめぐりのお取り払い頂くと言う事になる。
 そこに「やれ痛や今みかげを」と言う事にもなるし、難儀そのものが神愛とも分からして貰うし、そこから金光大神を掛け声にして立ち上るところから、新鮮な力も与えられるし、生々とした難儀との取組みの、取組みの生活というよりも難儀と本当の意味に於いての取組み、がっちりそのめぐりと組んで、そこのところのお取り払いを頂いて行くという事を、有り難いと悟らして貰う。めぐりは暗いがめぐりを悟れば明るい。
 頼むは生神金光大神この方御一人、金光大神、金光大神もまた天地の親神様から頼まれてござる。私ども頼むところも金光大神、そこに頼み頼まれる、てござる金光大神がお取次の働きというか、お取次を頂き御取次を願うという事になる。まあ私共の場合は御取次を頂きと言うよりも、御取次を願うが先でしょう。御取次を願わして貰うところから、また御取次を頂いて帰らなければならない。それは私共氏子が金光大神に頼むように、天地の親神様もまた金光大神に一人にかけて頼んでおられる。
 どうぞ神も助かり氏子も立ち行く道を教えてくれと言う事に、取次いでくれと言う事になっとられる、そこに頂くのが本当の意味に於いての神の道なのである。それを真の道とも言う。その真の道を頂いて帰る、そういう生き方にこれから成らせて頂くと言う事。御取次を願い、御取次を頂いて、私共の願いの丈けを神様にお願い申し上げるなら、また神様の願いを金光様を通して聞かせて貰う。そこから神も助かり氏子も立ち行く道が開けて来るのでありそこから、あいよかけよで立ち行く道が開けて来る。
 そういう助かり方を私共は現実この世にうち立てていかなければならない。神様をいよいよ信ずる事が出来ると同時に、神様もまた氏子を信じて下さるおかげ、信じ信じられたところからおかげが受けられ、て行くおかげと言うのが神徳を受けると言う事である。その神徳には私共人間が願って止まない幸福がそこにある。勿論幸福の内容と言うのは、不平を言わんで済み、又は思わんで済む程しの世界がこの世で顕現される。そういう心の状態に神様はもう限りないおかげを下さる。
 もう世の中で私が一番幸せ者じゃろうと思いますと言う人がよくありますけれども、そういう人がお金に難儀をして御座ったり、病気をしてござったり、人間関係で難儀があったりしておっては、私が一番この世で幸福とは言えないのです。この世で一番幸福だと思える事は、不平を思わんで済み、不足を言わんで済む生活が出来る、そういう心の状態にはすべてが足ろうて来るところのおかげが頂かれてくる、そういうおかげをこの世で頂き、そういうおかげをです。
 この世にも残しておくのであり、あの世にも持って行くというのである。これは私の持論ですけども、この世での助かりが無くしてどうしてあの世で極楽があるか、勿論この世で助かると言うのは金を沢山持っておるとか、健康のおかげ頂いておると言う事だけではない。いま申しますように、神様のおかげ頂いて、有り難い勿体ないと思わせて頂けれる助かりなのである。そういう助かりをです、そのまま持って行けるあの世に、だから私は仏教で言う反対の事が言えると思うです。
 この世が実際の世の中である、実の世である、あの世こそ影の世である、この世の影があの世に映ずるだけである。だから如何にこの世で踏ん張っとかにゃいかんか、頑張っとかにゃいかんかと言う事が分かる。もうこの世では仕方がないのであの世で極楽に行こう、そげな事にだまされちゃならん、とそんな感じがするね。けれどもそんな事でだまされた観念を持って生活しとる人がどの位あるか分からん。それが最近ではあの世があるかどうか分からんと言う人が多いですよね、決してそういう事ではない。
 あの世この世を通しておかげを頂いて行くのであるけれども、この世にある中にそこを悟らせて貰い、様々な難儀これは一切めぐりのせい、そこでめぐりを悟らして貰う、そこから金光大神を掛け声に勇んだ生活に入って行く、勇んだめぐりのお取り払いに、いうならば勇んで借金払いに務めると言う事である。百万の借金払いが出来たらもう出来た時には百万のお徳を受けておる。この辺が有り難い、借金払いが出来たやれやれじゃない、借金払いが出来た時にはもうすでにです。
 その払った借金だけはもう自分のものになっておる、自分の力になっておる、金光様の信心の素晴らしいところは、そこの辺のところも感じさせて貰う。めぐりのお取り払い、「やれ痛や今みかげを」と思うて修行させて頂きよったら、いつの間にめぐりのお取り払い頂いたか分からない時には、もうすでに自分が助かっとる世界にあると言う事です。然もそれは限りないおかげの頂けれる世界にあるわけです。それを御神徳と言い神様の御信用とも言う。
 その御神徳をあの世にも持って行けるのであり、この世にも残しておけるのである。「神も助かり、氏子も立ち行き、氏子あっての神、神あっての氏子末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」立教神伝の一番最後のところを読ませて頂いて、金光様の御信心の、金光教を通して天地の親神様の心の中と言うか、ここを通して私共に助かりを願っとられると言う感じが致します。
 そういう助かりであった時に、例えば今申します、あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけれると言う程しの助かりを以て、初めて神も助かると言うのである。只お願いをしてこれを頂いた、これが成就したと言うたような事は神の助かりには繋がらない。神様の助かりに繋がる程しの助かりをこの世で頂いて、おかげを頂かして貰わねばならない。この世は決して浮き世でもなからなければ仮の世でもない。
 この世こそ実の世界であり、この実の世界で私共が実績をあげておる、おかげを頂いておる、そのおかげがあの世にも持って行けれる、この世にも残して置けると言うもの。金光様の御信心がね、本当に人間がさして貰う宗教だと言う事を感じますね。もう人間のすべてがこのような願いを持っている、この世の幸、本当の幸福になりたいと言うこの世での幸福、この世での御利益、御利益と言うのをです低級視する人があったり、宗教があったり致しますなら、実力が無いからごまかしているんだと。
 あの世、あの世でごまかしとる、もうこの世じゃ仕方がなかばい諦めにゃ、あの世でいっちょ仏様なら仏様の救いを頂くんだからと、そういうものじゃない、この世で本当の助かりをしとってくれと、それが金光様の御信心である。天地金乃神様の願いはそこにある。そこから御自身も助かろうと努めて下さる、そこには私共の助かりに繋がって来る、神と氏子が仲良うする信心と、教えて下さる訳であります。この世の本当の助かりをお互いが目指しとるであろうが、ただ一般で御利益と言うことは軽視され。
 御利益と言うことは低級だと言うふうに言う人達が言うような、ただ本当におかげだけを願っとるとするなら、それはそう言われても笑われても仕方無い。けども私が願っとるおかげがそのまま神様の助かりに繋がして貰えれるものであるならば、それこそが天地の神様が私共の為に願って下さるおかげである。そこのおかげを金光大神の取次によって取次を願い、取次を頂いての生活にならして頂こうと言うのがお道でいう信心生活と言うのであります。
   どうぞ。